相模組の歩みOur History

おかげさまで100年。これからも建築を通して地域に貢献します。

大正2年に相模梅吉が木材製材業を創立し、堅木で木管などの製作を行ったのが当社の起源です。大正7(1918)年8月1日、梅吉は相模組を設立し、木材製材業の他に土木事業、建築事業の請負を始めました。大正14年、2代目社長に相模三蔵が就任し、建設事業を事業の軸としました。昭和18年、株式会社相模組に組織変更し、「真剣に考えよう」の社是のもと、建設を通し地域の発展に尽力してきました。昭和初期からの貴重な記録写真も交えて、地域と深く関わり続けた当社の歩みをご案内します。

1世紀の信頼を礎に、次代へと歩み始めます。

2018(平成30)年、当社は創業100年を迎えました。
大正の初めから平成の終わりまでをまたぐこの100年は、2度の世界大戦を経験し、高度経済成長、テロや震災など、世界でも国内でも文字どおり激動の時代でした。県内においても、商工業が発展し、鉄道・道路などの高速交通網や社会インフラの整備が進んで、長野五輪の開催が実現した一方、度重なる自然災害にも耐えてきました。

そんな1世紀を生き抜き、今も相模組として続いているのは、やはり何を置いても地域の皆さまのおかげに他なりません。地域からの要望に真摯に応え、暮らしをよりよくするため真面目にやってきたことが、結果的に100年という年月に積み重なったのだと思います。

おごらず甘えず、皆さまからいただく信頼の尊さを心に刻みながら、これからもひたむきに、地道に、地域のために励んでまいります。

沿革・フォトギャラリー

相模梅吉、現在の大町市で相模木材を創業
相模梅吉、相模組を創業し社長に就任 相模木材を統合
2代目社長に相模三蔵が就任


相模組本社落成時
相模家の⾃宅併⽤社屋として、信濃大町駅前(現在の明治安田生命大町営業所の場所)に建てた


相模組本社内部
左から2番目、こちらを⾒ているのが2代目社⻑の相模三蔵

相模組製材所/製材所の内部
相模組の前身は木材事業だったため、当時も製材所を保有。1923年の関東大震災では多くの木材を東京へ運び、復興を支えた



現場事務所の様子
壁に貼った『安全作業訓』には「早寝早起腹八分」「⾒たい足元整理が大事」などと記されている

信濃大町駅 整備事業
駅北側、現在の駐⾞場周辺を大規模に開発。その後、ベンチや植栽のある駅前公園も整備した


▼2001年の様子

松本駅 改築
1902年の開業以来となる駅舎の改築だったが、5年後、駅舎内からの出火によりこの建物は全焼してしまった

高瀬上橋
1942年の竣工から35年後に、同じ橋の改良整備工事も担当した。JR大糸線の高瀬川橋梁が並走しているが、昭和初期は鉄道の線路が今より川に近く、低い位置に通っていた


▼2020年の様子

企業統制により
株式会社相模組に組織変更
昭和電工大町工場 建設工事
高瀬川と農具川に囲まれた地で現在も操業する、昭和電工株式会社大町事業所の工場建設時の様子

東京支店 開設、(土) (建) 建設大臣登録となる
林業試験場浅川支庁舎 施工
現在の森林総合研究所多摩森林科学園(東京・八王子市)にあった試験場を施工した。昭和天皇の研究施設として使⽤され、竣工式には陛下もお越しになった

北城中学校 新築工事
1958年には神城中学校とともに廃校となり、現在の⽩⾺村⽴⽩⾺中学校が発足

喜多方支店及び長野支店開設
東京支店閉鎖
野口橋
⿅島川にかかる野口橋は、現在も歩⾏者⽤の側道橋が設置されており、建設当時の面影が残っている


▼2020年の様子

3代目社長に白澤忠生が就任、相模三蔵が会長に就任

篭川橋
大町エネルギー博物館近くの篭川橋。架け替え工事のため、下流約50mの所に仮橋を建設し、旧橋は一部の橋脚だけを残している(2020年8月現在)


▼2020年の様子

市⽴大町総合病院
1971年、移転新築時の写真で奥に写っているのは、現在の⻄棟 。隣接した東棟の向かいに、健診センターやレストランを備えた南棟を新たに建設した


▼2015年の様子

4代目社長に相模一男が就任

松本営業所開設
豊科営業所開設
本社所在地変更 (新築移転)
白馬営業所開設
豊科営業所を閉鎖し中信支店開設
池田営業所開設
ISO9001取得
松川営業所開設
さいたま営業所開設
喜多方支店閉鎖
さいたま営業所閉鎖
喜多方支店開設
5代目社長に蜜澤茂志が就任、相模一男が会長に就任